くるり(Kuruli)

姓 名:くるり(Kuruli)
英文名: くるり(Kuruli)
国 家:日本

9548
粉丝
138
歌曲
56
专辑
56
评论

メンバー
岸田繁(きしだ しげる、1976年4月27日 - ) ボーカル、ギター。京都府京都市左京区出身。血液型:O
佐藤征史(さとう まさし、1977年2月1日 - ) ベース、ボーカル。京都府亀岡市出身。血液型:O
元メンバー
森信行(もり のぶゆき、1975年6月20日 - ) ドラム。兵庫県猪名川町出身。血液型:B。
クリストファー・マグワイア(Christopher McGuire、1975年11月28日 - ) ドラム。アメリカ合衆国ミネソタ州ミネアポリス出身。
大村達身(おおむら たっしん、1975年12月17日 - ) ギター、ベース。兵庫県稲美町出身。血液型:O
小简介
くるり(QURULI)は、日本・京都府京都市出身のロックバンド。ボーカル・ギター担当の岸田繁、ベース担当の佐藤征史の2人から構成されている。現在まで7枚のスタジオアルバムと19枚のシングルなどをリリースし、約80万枚のセールスを記録している。公式ファンクラブ名は「純情息子」である。
1998年にシングル『東京』をリリースしメジャーデビュー。1999年にオーソドックスなバンドサウンドが特徴の1stアルバム『さよならストレンジャー』をリリース。2000年にオルタナティブサウンドに接近した2ndアルバム『図鑑』、2001年にはテクノ・ダンスミュージックに影響を受けた3rdアルバム『TEAM ROCK』、2002年にはエレクトロニカサウンドを展開した4thアルバム『THE WORLD IS MINE』、2004年には再びバンドサウンドに回帰しつつもジャズの要素を取り入れた5thアルバム『アンテナ』、2005年にはザ・フーやビートルズを代表する60年代のUKロックに影響を受けた6thアルバム『NIKKI』、2007年には遂にクラシック色の強い7thアルバム『ワルツを踊れ Tanz Walzer』をリリースしている。
このように多くの音楽的な要素を取り入れアルバムごとに違った顔を見せるバンドである。
大事件
結成からメジャーデビュー(1996年-1998年)
1995年4月、岸田繁が立命館大学に入学。大学の音楽サークルであるロックコミューンに入り森信行や大村達身と出会う。佐藤征史とは立命館高等学校の1年のときに出会い、大学では同じサークルに入った。その後、岸田と佐藤が後のくるりの原型となるバンドを結成。このときのメンバーは岸田と佐藤のほかに別のボーカルとドラマーがいる「毒猿」という4人体制のバンドであった。岸田はこの頃から曲を作ってこのバンドで演奏していたが、あまりいいバンドではなかったとも語っている。ほどなくしてバンドのドラマーが辞めたため森を誘う。そしてバンドのボーカリストも辞めたため岸田がボーカルをとることになり以後、3ピースバンドで活動してゆくことになる。ちなみにメンバー3人は、平行して別のバンドにも参加していた。
1996年2月、発売8曲入りカセットテープ『くるりの一回転』を発売し完売。9月にアマチュアバンドのコンテストの賞金10万円目的で正式に結成。しかし、岸田の話によると「普通に結成を持ちかければいいものを、当時凄くひねくれていたので、素直に言えず、賞金稼ぎという建前で結成を持ちかけた」という。演奏曲は『モノノケ姫』『夜行列車と烏瓜』『雫が咲いたら』(未発表曲。ワルツ調らしい)。くるりは見事優勝し10万円を獲得したものの、そのすべてを打ち上げとパチンコに使った。
1997年には、ラジオ番組にも出演する。同年7月には第1回フジ・ロック・フェスティバルをサークル仲間たちとともに観覧、台風の直撃などで色々とひどい目にあったらしい。程なくしてシュガーフィールズ・原の東京の自宅スタジオでレコーディングをする。BAD NEWS RECORDSにデモテープを送ったところ気に入られ、11月にインディーズ1stアルバムである『もしもし』を発売。
1998年1月から、ライブハウスツアー・退屈退治を11月まで行う。また5月にはインディーズ2ndアルバムである『ファンデリア』を発売。同月に行われた大阪城音楽堂でのイベント「SWEET LOVE SHOWER」のオープニングアクトや、スピッツ、サニーデイ・サービスらと「ロックロックこんにちは」に出演。7月には会場を東京に移した第2回フジ・ロック・フェスティバルを観覧。
さよならストレンジャーから図鑑(1999年-2000年)
1998年10月にはビクターエンタテインメントよりデビューシングル『東京』をリリースしメジャーデビュー、同月のFM802のヘビーローテーションナンバーに選ばれる。11月に行われたFM802のイベントであるGottcha!に出演。
1999年2月、2ndシングル『虹』をリリース。3月に佐藤と森は無事大学を卒業、岸田は留年することとなった。4月には佐久間正英をプロデューサーに迎えて制作された1stアルバム『さよならストレンジャー』をリリース。5月にはワンマン全国ツアー、三日で激ヤセ 驚異のキノコパワーを敢行し全公演SOLD OUT。ツアー後は共同プロデューサーに根岸孝旨を迎えて次回作のレコーディングを開始。7月にはフジ・ロック・フェスティバルに出演しその他の夏のイベントにも出演した。8月、岸田が前期卒業式で大学を卒業。同じく8月には3rdシングル『青い空』、11月には4thシングル『街』を立て続けにリリース。12月にはワンマンライブツアーもうじき平成12年を敢行した。
2000年1月、ジム・オルークらとのコラボレーションに挑んだギターロック色の強い2ndアルバム『図鑑』をリリース。4月から「図鑑」発売記念ツアー世田谷線旧型車輌を残そうキャンペーンを敢行。同月には5thシングルである春風をリリース。8月には第1回ROCK IN JAPAN FESTIVALやサマーソニックなどの夏のイベントに出演する。
TEAM ROCK(2000年-2001年)
2000年8月中旬から徐々に次回作のレコーディングに入る。曲の原型はできあがっていたが自分たちでリミックスしてもイマイチの出来であったため、エンジニアの高山徹にリミックスを依頼し曲が完成。10月に6thシングル『ワンダーフォーゲル』をリリース。11月からはThe Dismemberment Planとのカップリングツアーである 百鬼夜行を敢行。
2001年1月、SUPERCARのフルカワミキがコーラスとして参加した7thシングル『ばらの花』をリリース。2月に実験的要素を含んだ3rdアルバム『TEAM ROCK』をリリースした。4月から3rdアルバム発売記念ツアーTEAM PARTY 2001~&~TEAM PARTY 200,000,001を敢行。7月にはフジ・ロック・フェスティバルのFIELD OF HEAVENに出演。8月にはライジング・サン・ロックフェスティバルへの出演やナンバーガールとの対バンなどを行う。しかし、上記のツアー中メンバー間に軋轢が生じたため、その打開策として外部から新たにメンバーを招聘することとなる。その人物こそ後に正式メンバーとなる大村達身である。しかし当時大村はくるりの曲をまったく覚えておらず、岸田らメンバーは交通費だけ払って帰ってもらおうとしていたそうである。しかしその後、新たな曲作りをする上で大村はくるりに居なくてはならないメンバーとなり、この年の夏のフェスティバルよりサポート・メンバーとしてライブに参加、まもなく正式メンバーとしてくるりへ加入することとなる。
THE WORLD IS MINE(2001年-2002年)
2001年秋からくるりは初めての海外レコーディングを行う。この時、アメリカ同時多発テロ事件の影響で出発がひと月延期することとなったが10月にはロンドン郊外にあるサイロを改造した「ブラー・ストリート」スタジオでエンジニア・プロデューサーのニック・ハナンとともに楽曲制作とレコーディングを開始。約1ヶ月の滞在の間に次回作収録予定の曲が多く制作された。帰国後は都内のスタジオでレコーディングが継続されたが、機材トラブルなどで順調とはいかなかった。それでもエンジニアの上原キコウ、高山徹、中村研一に加えイギリスから呼び寄せたニック・ハナンとともにレコーディングをすすめた。
多忙なスケジュールの中のレコーディングではあったが2002年2月にくるり最大のヒット曲となった『ワールズエンド・スーパーノヴァ』をリリース。レコーディングスケジュール1ヶ月オーバーし何度もリミックスをやり直した後に3月、4thアルバムである「THE WORLD IS MINE」をリリースした。3月31日から京都磔磔を皮切りに「くるりライブツアー2002 ~ うんぽこ どっこいしょ ~ 」を敢行。そのツアーの間の5月にはシングル『男の子と女の子』をリリースしている。ツアー終了後の7月、ドラマーの森がバンドを脱退した。森の脱退後はサポートメンバーとして臺太郎を迎えて活動を継続した。9月からTHE DISMEMBERMENT PLANとアメリカ東海岸ツアーを行う。ツアー後はボストン郊外にある「ロングビュー・スタジオ」に滞在しそのとき後にメンバーとなるクリストファー・マグワイアと初めて顔を会わせている。帰国後はくるり主宰のレーベルであるNOISE McCARTNEY RECORDSを設立した。12月にはくるり主催のイベント、「百鬼夜行2002」を開催。矢野顕子、遠藤賢司、レイ・ハラカミらと共演し全国を回った。
ジョゼと虎と魚たち(2003年)
2003年1月から4月までくるりは映画サウンドトラックの制作を行う。「ジョゼと虎と魚たち」と「リアリズムの宿」の2つのサントラを同時進行で制作するというもの。「ジョゼと虎と魚たち」の主題歌である『ハイウェイ』とサウンドトラックが同年11月に発売されている。また、「リアリズムの宿」のテーマ曲である『家出娘』はくるりのベスト盤である『ベスト オブ くるり -TOWER OF MUSIC LOVER-』にてはじめて音源化された。
アンテナ(2003年-2004年)
2003年5月、スコットランド・グラスゴーに渡ったくるりはエンジニア・プロデューサーであるトニー・ドゥーガンのもとレコーディングを開始。サポートドラマーには後にくるりのツアーに参加することとなるクリフ・アーモンドを迎えて『RACE』や『グッドモーニング』、『HOW TO GO 』をレコーディングした。帰国後、くるりのプライベートスタジオであるペンタトニックにて『HOW TO GO』をリテイクした。同年の夏からはクリストファー・マグワイアをサポートドラマーに迎えてフジ・ロック・フェスティバルのホワイトステージに出演した。そのほかにも夏のフェスティバルに出演している。9月に1年半ぶりとなるシングル『HOW TO GO』をリリース。そのままマグワイアとともに次回作に向けてセッションやレコーディングを重ねていった。
2004年2月、シングル『ロックンロール』をリリースそして3月に5thアルバムである『アンテナ』をリリースした。3月30日より京都磔磔から「くるりワンマンライブツアー2004~安心しろ、秘孔ははずしてある~」をスタート。初の日本武道館公演を含むツアーとなった。7月には初のビデオクリップ集である「くるくる鮨」を、9月にはツアードキュメンタリーフィルムである「くるくる節」を発売した。さらなるレコーディングやライブを行おうとするも10月にクリストファー・マグワイアが脱退した。再び臺太郎をサポートドラマーに迎えて学園祭ツアーを行う。12月、京都大学西部講堂にて岸田と京都大学の学生たちが第1回みやこ音楽祭を開催。
NIKKI(2005年-2006年)
2005年1月、岸田と佐藤はCoccoとのプロジェクトバンドであるSINGER SONGERを堀江博久、臺太郎とともにスタートさせる。途中、岸田が入院するということもあったがレコーディングを進める。2月、14thシングル『BIRTHDAY』をリリースした。3月、ニューヨークに渡り次回作のための楽曲制作を行う。4月にも伊豆などで同作業を行った。5月、再び渡米。以前、セッションなどをしたボストンにあるスタジオ「ロングビュー」でレコーディングを開始した。約1ヶ月半の滞在で10数曲をレコーディングした。5月末にはSINGER SONGERのシングル『初花凛々』がリリースされている。6月半ば、そのままロンドンへ向かいプロデューサーのリアム・ワトソンとともにレコーディングを再開。今回のレコーディングでは岸田の意向により60年代のレアなアナログレコーディング機材を使用している。6月末にはSINGER SONGERのアルバム『ばらいろポップ』がリリースされた。7月、レコーディングを終えたくるりは帰国し夏のフェスティバルに出演。フジ・ロック・フェスティバルではメインステージであるグリーン・ステージに出演、ROCK IN JAPAN FESTIVALではSINGER SONGERで出演した。8月に15thシングル『Superstar』、9月に16thシングル『赤い電車』、10月に17thシングル『Baby I Love You』と3ヶ月連続でシングルのリリースが行なわれた。9月29日からはサポートメンバーにクリフ・アーモンドと堀江博之を迎えてくるりワンマンライブツアー2005 ~はぐれメタル純情派~を開催。11月には6thアルバム『NIKKI』をリリースした。12月にはCOUNTDOWN JAPANに出演。最大規模のEARTH STAGEにおいて年越しライブを担当した。
2006年1月には追加スケジュールであるくるりワンマンライブツアー2006 ~はぐれメタル魔神斬り~を日本武道館公演を皮切り開催。1月31日まで続いた。
ベスト オブ くるり(2006年)
2月からくるりはRIP SLYMEとのコラボレーションに入る。休暇も交えつつレコーディングをすすめ7月にシングル『Juice』をリリース。同じく7月から「くるり対バンツアー2006 ~毎日が地蔵盆~」をスタート。テルスターやLucky Lips、チャットモンチーなどと共演する。そして7月26日にくるり初のベスト盤となる『ベスト オブ くるり -TOWER OF MUSIC LOVER-』をリリースした。結成10周年の2006年において自分たちを振り返る意味で、レコード会社に願い出てリリースしたものである。8月には6年ぶりのサマーソニックをはじめとする夏のフェスティバルに出演。ROCK IN JAPAN FESTIVALでは岸田が体調を崩しつつもメインステージであるGRASS STAGEで1日目のトリを務めた。8月下旬からは京都系ミュージシャンのコンピレーションアルバムの準備をはじめた。9月からは全国のZeppを回ったくるりワンマンライブツアー 2006 ~まZEPPご飯!~を敢行した。11月には先述のコンピレーションアルバム『みやこ音楽/V.A.』をNOISE McCARTNEY RECORDSよりリリース。くるりは『五月の海』という曲を提供している。このころからサポートドラマーとして菊地悠也が参加している。時を同じくして次回作のための楽曲制作に入った。12月にはウィーンに飛び、レコーディングスタジオの下見を行った。このときドイツでさまざまミュージシャンのマネジメントを行っているガッツという人物と会っている。12月末にCOUNTDOWN JAPAN 06/07に出演。このライブを最後にギタリストである大村が脱退した。
ワルツを踊れ Tanz Walzer (2007年)
2007年1月よりスタジオ・ペンタトニックにてプリ・プロダクションを開始。すでにこの時点で多数のアイディアがあがっていた。2月、レコーディングのためウィーンへ飛ぶ。フィードバック・スタジオにてフランス人プロデューサーであるステファヌ・"アルフ"・ブリア、ハウス・エンジニアであるパトリック・パルシンガーとともにレコーディングを開始。サポートドラマーには引き続き菊地が起用されている。2月の間はベーシック・トラックを中心に録る。3月、FM802のイベントBEAT ITのため数日の帰国。その後すぐにウィーンに戻りレコーディングを再開。3月半ばからボーカル録音を含めたオーバー・ダブ作業を行う。また、パトリック・パルシンガーの紹介でウィーン交響楽団のパーカッショニストであるフリップを紹介されストリングスアレンジを依頼した。4月、フィードバック・スタジオに加えてハフナー・スタジオでもレコーディングを進める。5月からウィーンを離れアルフの本拠地であるフランス・パリに移動。ボーカル録音やミックス作業を行う。パリ滞在最終日に曲順を決め、ロンドンへ渡りメトロポリス・スタジオにてマスタリングを行うも仕上がりに満足できず、日本でマスタリングをすることに。5月末に帰国。5月30日、18thシングル『JUBILEE』がリリースされる。6月3日にマスタリングが終了しアルバムが完成。6月27日、7thアルバム『ワルツを踊れ Tanz Walzer』がリリースされた。サポートドラマーには引き続き菊地悠也、コーラス隊にはザ・サスペンダーズを迎えて7月15日から戸田市文化会館を皮切りにくるり史上初となるホールツアー、くるり ホールツアー2007「ふれあいコンサート」を行った。7月末には中国台湾の野外フェスティバルに出演。8月末には3年ぶりに沖縄公演を行っている。9月23日、くるり主催の京都野外フェスティバルである京都音楽博覧会を開催。Coccoや小田和正、ジェイソン・フォークナーが出演した。10月と11月はパシフィコ横浜公演などの準備に追われる。11月中旬にはくるりの公式HP上でライブで聴きたい曲のアンケートを行っていた。サポートメンバーにはギターに藤井一彦とあらきゆうこを迎えて12月のライブを行った。12月6日に京都の磔磔でワンマンライブ「TAKUTAKU DE KUTAKUTA」を開催。12月11日、12日にはパシフィコ横浜で「ふれあいコンサートファイナル」を行った。ふれあいコンサートでファイナルではサポートギタリストに佐橋佳幸を迎えている。12月29日にはCOUNTDOWN JAPAN EASTに、12月31日にはCOUNTDOWN JAPAN WESTに出演。年を越える前にベートーヴェンの交響曲第9番を演奏した。
Philharmonic or die (2008年-現在)
2008年2月、昨年の磔磔とパシフィコ横浜での公演を収録したくるり初のライブベストアルバム『Philharmonic or die』をリリース。1月中旬にはパシフィコ横浜公演のミックスをするため再びウィーンに飛び、『ワルツを踊れ』のエンジニアであったディーツとともミックスを行った。同年5月にはパシフィコ横浜公演を収録したライブDVD「横濱ウィンナー」がリリース。さらに9月3日にもニューシングル『さよならリグレット』をリリース。また、9月6日に京都音楽博覧会へ参加。

くるり(Kuruli)的留言板